まぜまぜd(^_^o)ひふみ神示

下つ巻、第二十七帖(六九)に、「よむたび毎に神が気つける様に、声出して、よめばよむだけお蔭あるのぞ。」とあります。従いましてこちらのブログでは、選挙カーのアナウンス原稿や、演説原稿の様な、声に出して読みやすい。そんなレイアウトを目指してます(^^)。ブースカ明日香

まぜまぜd(^_^o)ひふみ神示・121〜150

ひふみ神示をまぜまぜに読む(*´ω`*)

ひふみ神示第4巻

天つ巻、全三十帖

第十四帖~第三十帖

通し番号(一二一)~(一三七)

自 昭和十九年八月三十一日

至 昭和十九年九月十四日

ひふみ神示第5巻

地(九二=くに)つ巻

第一帖~第十三帖

通し番号(一三八)~(一五〇)

自 昭和十九年九月一五日

至 昭和十九年十月十一日

 

121>150

天つ巻、第十四帖(一二一)

海一つ越えて寒い国に、まことの宝、隠してあるのざぞ。

これからいよいよとなりたら、神が許して、まことの臣民に手柄いたさすぞ。

外国人がいくら逆立ちしても、神が隠してゐるのざから手は着けられんぞ。

世の元からのことであれど、いよいよが近くなりたら、この方の力で出して見せるぞ。

びっくり箱が開けて来るぞ。

八月の七日、

ひつくのか三。

 

地つ巻、第十三帖(一五〇)

赤い眼鏡かければ赤く見えると思うてゐるが、それは相手が白いときばかりぞ。

青いものは紫にうつるぞ。

今の世は色とりどり、眼鏡とりどりざから、見当とれん(けんとう、とれん)ことになるのざぞ。

眼鏡はづすに限るのぞ。

眼鏡はづすとは洗濯することざぞ。

上ばかりよくてもならず、下ばかりよくてもならんぞ。

上も下も、天地そろうてよくなりて、世界中の臣民、けものまで安心して暮らせる新の世(あらのよ)に致すのざぞ。

取り違へするなよ。

九月二十三日、

一二Θ。

 

122>149

天つ巻、第十五帖(一二二)

神の国には神の国のやり方あるぞ。

支那には支那、オロシヤにはオロシヤ、それぞれにやり方がちがふのざぞ。

教(おしえ)もそれぞれにちがってゐるのざぞ。

元は一つであるなれど、神の教が一等よいと申しても、そのままでは外国には通らんぞ。

このことよく心にたたんでおいて、上に立つ役員どの、気つけて呉れよ。

猫に小判、何にもならんぞ。

神の一度申したことは、一分もちがはんぞ。

八月七日、

一二Θ。

【あさりより>「支那」という表現は、中国、或いは中華系と呼ばれる人びとに対する差別表現でしょうか?この漢字を使っていた日本人の差別意識が、そのまま「籠って」いる事は確かです。でも、周りに中国の友達がいるならば、彼、もしくは彼女に『チャイナ=China』を漢字で書いて、とお願いしてみてください。果たして、どのような結果になるでしょうね?それと『オロシヤ』という表現もよく注目しておいてね。(╹◡╹)/明日香>神示が降ろされた日付けにも注意。昭和19年は、太平洋戦争の真っ最中ですね。】

 

地つ巻、第十二帖(一四九)

この道は道なき道ざぞ。

天理(てんり=天理教)も、金光(こんこう=金光教)も黒住(くろずみ=黒住教)も、今はたましひぬけて居れど、この道入れて生きかへるのぞ。

日蓮(にちれん)も親鸞(しんらん)も、耶蘇(やそ=耶蘇教=キリスト教)も、何もかもみな、脱け殻ぞ。

この道でたま入れて呉れよ。

この道は「ゝ」ぞ。

「〇」の中に「ゝ」入れて呉れと申してあろうが。

臣民も、世界中の臣民も、国々も、みな同じことぞ。

「ゝ」入れて呉れよ。

「〇」を掃除して居らぬと「ゝ」はいらんぞ。

今度の戦は「〇」の掃除ぞと申してあらうがな。

まつりとは調和(まつり)合はすこと、と申してあろうがな。

この道は教でないと云ふてあらうが。

教会やほかの集ひでないと申してあらうがな。

人集めて呉れるなと申してあらうがな。

世界の臣民みな信者と申してあらうが。

この道は道なき道、時なき道ぞ、光ぞ。

この道でみな生き返るのざぞ。

天明、阿房(あぼう=阿呆、あほう)になりて呉れよ。我(が)すてて呉れよ。

神かかるのに苦しいぞ。

九月二十三日、

一二Θ。

 

123>148

天つ巻、第十六帖(一二三)

今度の戦済みたら、てんし様が世界中知ろしめして、外国には王はなくなるのざぞ。

一旦戦おさまりても、あとのゴタゴタ、なかなか静まらんぞ。

神の臣民ふんどし締めて、神の申すこと、よく腹に入れて置いて呉れよ。

ゴタゴタ起りたとき、何うしたらよいかと云ふことも、この神示(ふで)よく読んで置けば分るやうにしてあるのざぞ。

神は天からと、宙(そら)からと、地からと、力合はして(ちから、あわして)、神の臣民に手柄立てさす様にしてあるのざが、今では手柄立てさす、神の御用に使ふ臣民一分(いちぶ)もないのざぞ。

神の国が勝つばかりではないのざぞ。

世界中の人も草も動物も助けて、みな喜ぶやうにせなならんのざから、 臣民では見当取れん、永遠(とことは)につづく神世に致すのざから、素直に神の申すこときくが一等ざぞ。

人間の知恵でやれるなら、やって見よれ。

あちらへ外れ、こちらへ外れて、ぬらりくらりと鰻つかみ(うなぎつかみ)ぞ。

思ふやうにはなるまいがな。

神の国が本の国(もとのくに)ざから、神の国からあらためるのざから、一番つらいことになるのざぞ。

覚悟はよいか、腹さへ切れぬ様なフナフナ腰で大番頭とは何と云ふことぞ。

てんし様は申すもかしこし、人民さま、犬猫にも済むまいぞ。

人の力ばかりで戦してゐるのでないこと位、分って居らうがな。

目に見せてあらうがな。これでも分らんか。

八月七日、

一二Θ。

 

地つ巻、第十一帖(一四八)

世界丸めて一つの国にするぞと申してあるが、国はそれぞれの色の違ふ臣民によりて、一つ一つの国作らすぞ。

その心々によりて、それぞれの教作らすのぞ。

旧きものまかりて、また新しくなるのぞ。

その心々の国(こころこころのくに)と申すは、心々の国であるぞ。

一つの王で治めるのざぞ。

天つ日嗣の実子様が世界中照らすのぞ。

国のひつきの御役も大切の御役ぞ。

道とは三つの道が一つになることぞ。

みちみつことぞ。

もとの昔に返すのざぞ。

つくりかための終りの仕組ぞ。

終は始ぞ、始は霊(ひ)ぞ。

富士、 都となるのざぞ。

幽界(がいこく)行きは外国行きぞ。

神の国光りて目あけて見れんことになるのざぞ。

臣民の身体からも光が出るのざぞ。

その光によりて、その御役、位、分るのざから。

みろくの世となりたら、何もかもハッキリして、うれしうれしの世となるのぞ。

今の文明なくなるのでないぞ。

たま入れていよいよ光りて来るのぞ。

手握りて、草木も「四つあし」もみな唄ふこととなるのぞ。

み光にみな集まりて来るのざぞ。

てんし様の御光は神の光であるのざぞ。

九月二十と一日、

一二か三。

 

124>147

天つ巻、第十七帖(一二四)

昔から生き通しの活神様のすることぞ。

泥の海にする位、朝飯前のことざが、それでは臣民が可哀そうなから、天の大神様にこの方が詑びして、一日(ひとひ)一日と延ばしてゐるのざぞ。

その苦労も分らずに、臣民勝手なことばかりしてゐると、神の堪忍袋切れたら何んなことあるか分らんぞ。

米があると申して油断するでないぞ。

一旦は天地へ引き上げぞ。

八月七日、

一二Θ。

 

地つ巻、第十帖(一四七)

何事も方便と申して自分勝手なことばかり申してゐるが、方便と申すもの、神の国には無いのざぞ。

まことがことぞ。

まの事ぞ。

ことだまぞ。

これまでは方便と申して逃げられたが、も早逃げること出来ないぞ。

方便の人々、早う心洗ひて呉れよ。

方便の世は済みたのざぞ。

いまでも仏の世と思うてゐるとびっくりがでるぞ。

神の国、元の神がスッカリ現はれて、富士の高嶺から天地(あめつち)へ、のりとするぞ。

岩戸しめる御役になるなよ。

九月の二十日、

ひつ九のか三。

 

125>146

天つ巻、第十八帖(一二五)

何時も気つけてあることざが、神が人を使うてゐるのざぞ。

今度の戦で外国人にもよく分って、神様にはかなはん、何うか(どうか)言ふこときくから、

夜も昼もなく神に仕へるから、ゆるして呉れと申す様になるのざぞ。

それには神の臣民の身魂、掃除せなならんのざぞ。

くどい様なれど一時(いちじ)も早く、一人でも多く改心して下されよ。

神は急ぐのざぞ。

八月七日、

一二のΘ。

 

地つ巻、第九帖(一四六)

ひつくの神にひと時拝せよ。

神のめぐみ身にも受けよ。

からだ甦るぞ。

神の光を着よ。

み光をいただけよ、食べよ。

神ほど結構なものないぞ。

今の臣民、日をいただかぬから病になるのざぞ。

神の子は日の子と申してあらうがな。

九月二十日、

ひつ九のか三。

 

126>145

天つ巻、第十九帖(一二六)

神の力が何んなにあるか、今度は一度は世界の臣民に見せてやらねば納まらんのざぞ。

世界ゆすぶりて知らせねばならん様になるなれど、少しでも弱くゆすりて済む様にしたいから、くどう気つけてゐるのざぞ。

ここまで世が迫りて来てゐるのぞ。

まだ目醒めぬか、神は何うなっても知らんぞ。

早く気つかぬと気の毒出来るぞ。

その時になりては間に合はんぞ。

八月七日、

一二Θ。

 

地つ巻、第八帖(一四五)

祓ひせよと申してあることは、何もかも借銭なしにする事ぞ。

借銭なしとは、めぐりなくすることぞ。

昔からの借銭は誰にもあるのざぞ。

それ、はらってしまふまでは誰によらず苦しむのぞ。

人ばかりでないぞ、家ばかりでないぞ。

国には国の借銭あるぞ。

世界中借銭なし、何しても大望(たいもう)であるぞ。

今度の世界中の戦は、世界の借銭なしぞ。

世界の大祓ひ(おおはらい)ぞ。

神主、お祓ひの祝詞(のりと)あげても何にもならんぞ。

お祓ひ祝詞は宣(の)るのぞ。今の神主、宣(の)ってないぞ。口先ばかりぞ。

祝詞も抜けてゐるぞ。

「あなはち」「しきまき」や、「くにつ罪」、みな抜けて読んでゐるではないか。

臣民の心にはきたなく映るであろうが。

それは心の鏡くもってゐるからぞ。

悪や学にだまされて、肝心の祝詞まで骨抜きにしてゐるでないか。

これでは世界はきよまらんぞ。

祝詞はよむものではないぞ。

神前で読めばそれでよいと思うてゐるが、それ丈では(それだけでは)何にもならんぞ。

宣るのざぞ。

いのるのざぞ。

なりきるのざぞ。

とけきるのざぞ。

神主ばかりでないぞ、皆心得ておけよ。

神のことは神主に、仏は坊主にと申してゐること、根本の大間違ひぞ。

九月十九日、

ひつ九のΘ。

 

127>144

天つ巻、第二十帖(一二七)

神の世と申すのは、今の臣民の思ふてゐるやうな世ではないぞ。

金(きん)は要らぬのざぞ。

お土から「あがりたもの」が光りて来るのざぞ。

衣類たべ物、家倉まで変るのざぞ。

草木も喜ぶ政治と申してあらうがな。

誰でもそれそれに、先きの分る様になるのぞ。

お日様も

お月様も

海も

山も

野も

光り輝いて水晶の様になるのぞ。

悪はどこにもかくれること出来ん様になるのぞ。

ばくち、しょうぎは無く致すぞ。

雨も要るだけ降らしてやるぞ。

風もよきやうに吹かしてやるぞ。

神をたたえる声が天地にみちみちて、うれしうれしの世となるのざぞ。

八月の七日、

ひつ九のか三ふで。

 

地つ巻、第七帖(一四四)

神にまつらふ者には生も死もないのぞ。

死のこと、「まかる」と申してあろうがな。

生き通しぞ。

なきがらは臣民残さなならんのざが、臣民でも昔は残さないで死った(まかった)のであるぞ。

それがまことの神国の臣民ぞ。

みことぞ。

世の元と申すものは、天も地も、泥の海でありたのざぞ。

その時から、この世初まってから生き通しの神神様の御働きで、五六七(みろく)の世が来るのざぞ。

腹が出来て居ると、腹に神づまりますのざぞ。

高天原(たかあまはら)ぞ。

神漏岐(かむろぎ)、神漏美(かむろみ)の命(みこと)忘れるでないぞ。 

そこから分りて来るぞ。

海をみな船で埋めねばならんぞ。

海断たれて苦しまん様にして呉れよ。

海めぐらしてある神の国、きよめにきよめておいた神の国に、幽国(がいこく)の悪、わたり来て、神は残念ぞ。 

見ておざれ、神の力現はす時来たぞ。

九月十八日、

ひつ九Θ。

 

128>143

天つ巻、第二十一帖(一二八)

みろく出づるには、はじめ半ば(なかば)は焼くぞ。

人、二分は死。

みな人、神の宮となる。

西に戦争(いくさ)しつくし、神世とひらき、国毎に(くにごとに)、

一二三(ひふみ)、

三四五(みよいづ)

たりて

百千万(ももちよろず)。

神急ぐぞよ。

八月七日、

ひつくのかみふみぞ。

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天つ巻、第二十一帖(一二八)原文

六五二八一五八八九三一十

二六四三七七十十三八七二

四二一九三四九十四十八九二九十二一(ヒ)二(フ)三(ミ) 

三(ミ)四(ヨ)五(イツ)十(ト)百(モモ)千(チ)卍(ヨロズ)Θ(カミ)一(イ)十(ソ)九(グ)三(ゾ)四(ヨ)八(ハチガツ)七(ナノカ)一(ヒ)二(ツキ)Θ(カミ)二(フ)三(ミ)三(ゾ)

【明日香>ひふみ神示の原文って、世界一の暗号制作マシンといわれた「エニグマ」で書かれた暗号文よりも、複雑で難しいのではないだろうか??エニグマは結局現物を手に入れて、解読したらしいけども。ともかく、これだけの質量の神示を解き明かした方々には、ただただ頭が下がるばかりです。ありがとうございます。《あさりより>アルファベットは、表音文字である、意味を持たないでしょう、難しいのは、当たり前(╹◡╹)》】

~~~~~~~~~

地つ巻、第六帖 (一四三)

神の国八つ裂きと申してあることいよいよ近づいたぞ。

八つの国一つになりて、神の国に攻めて来るぞ。

目さめたらその日の生命(いのち)おあづかりしたのざぞ。

神の肉体、神の生命、大切せよ。

神の国は神の力でないと治まったことないぞ、神第一ぞ。

いつまで仏や基(キリスト)や色々なものにこだはってゐるのぞ。

出雲の神様、大切にありがたくお祀りせよ。

尊い神様ぞ。

天つ神、国つ神、みなの神々様に御礼申せよ。

まつろひて下されよ。

結構な恐い世となりて釆たぞ、上下ぐれんぞ。

九月十七日、

一二のΘ。

 

129>142

天つ巻、第二十二帖(一二九)

十柱の世の元からの活神様(いきがみさま)、御活動になりてゐること、分りたであろうがな。

「けもの」の入れものには分るまいなれど、神の臣民にはよく分りてゐる筈ぞ。

まだ、だんだんに烈しくなりて、外国の臣民にも分る様になりて来るのざぞ。

その時になりて、分りたのではおそいおそい。

早う洗濯いたして呉れよ。

八月の九日、 

ひつ九のか三。

 

地つ巻、第五帖(一四二)

片輪車でトンテントンテン。

骨折損の草臥儲け(ほねおりぞんのくたびれもうけ)ばかり、いつまでしてゐるのぞ。

神にまつろへと申してあろうがな。

臣民の智恵で何出来たか、早う改心せよ。

三月三日、五月五日は結構な日ぞ。

九月十六日、

ひつ九のか三。

 

130>141

天つ巻、第二十三帖(一三〇)

我がなくてはならん。

我があってはならず、

よくこの神示(ふで)よめと申すのぞ。

悪はあるが無いのざぞ。

善はあるのざが無いのざぞ。

この道理分りたらそれが善人だぞ。

千人力の人が善人であるぞ。

お人よしではならんぞ。それは善人ではないのざぞ。

神の臣民ではないぞ。

雨の神どの、風の神どのに、とく御礼申せよ。

八月の九日、

一二Θ。

 

地つ巻、第四帖(一四一)

この神示、いくらでも出て来るのざぞ。

今の事と先の事と、三千世界。

何も彼も分るのざから、よく読

みて腹に入れておいて呉れよ。

この神示盗まれぬ様になされよ。

神示とりに来る人あるから気つけて置くぞ。

この道は中行く道ぞ。

左も右りも偏ってはならんぞ。

いつも心にてんし様拝みておれば、何もかも楽にゆける様になりてゐるのざぞ。

我れが我れがと思うてゐると、鼻ポキリと折れるぞ。

九月十六日、 

ひつくのか三。

 

131>140

天つ巻、第二十四帖(一三一)

今の臣民、めくら聾(つんぼ)ばかりと申してあるが、その通りでないか。

この世はおろか自分の身体のことさへ分りては居らんのざぞ。

それでこの世をもちて行く積りか。

分らんと申しても余りでないか。

神の申すこと違ったではないか、と申す臣民も今に出て来るぞ。

神は大難を小難にまつりかへてゐるのに分らんか。

えらいむごいこと出来るのを、小難にしてあること分らんか。

ひどいこと出て来ること待ちてゐるのは邪 (じゃ)のみたまぞ。

そんなことでは神の臣民とは申されんぞ。

臣民は、神に、わるい事は小さくして呉れと毎日お願ひするのが務めぞ。

臣民近慾(ちかよく)なから分らんのぞ。

慾もなくてはならんのざぞ。

「取違ひ」と「鼻高」とが一番恐いのぞ。

神は生れ赤子のこころを喜ぶぞ。みがけば赤子となるのぞ。

いよいよが来たぞ。

九月十日、

ひつ九のかみ。

 

地つ巻、第三帖(一四〇)

人民同士の戦では到底かなはんなれど、いよいよとなりたら、神がうつりて手柄さすのであるから、それまでに身魂みがいておいて呉れよ。

世界中が攻め寄せたと申しても、「誠(まこと)」には勝てんのであるぞ。

誠ほど結構なものないから、誠が神風であるから。

臣民に誠なくなりてゐると、何んな気の毒出来るか分らんから、くどう気つけておくのざぞ。

腹掃除せよ。

九月の十六日、

ひつ九のか三。

 

132>139

天つ巻、第二十五帖(一三二)

今に臣民、何も言へなくなるのざぞ。

神烈しくなるのざぞ。

目あけて居れんことになるのざぞ。

四つン這ひになりて、這ひ廻らなならんことになるのざぞ。

のたうち廻らなならんのざぞ。土にもぐらなならんのざぞ。

水くぐらなならんのざぞ。

臣民可哀さうなれど、かうせねば鍛へられんのざぞ。

この世始まってから二度とない苦労ざが、我慢してやり通して呉れよ。

九月十日、

ひつくのか三。

 

地つ巻、第二帖(一三九)

今は闇の世であるから、夜の明けたこと申しても、誰にも分らんなれど、

夜が明けたら、なる程さうでありたかとビックリするなれど、

それでは間に合はんのざぞ。

それまでに心改めておいて下されよ。

この道信ずれは、すぐよくなると思うてゐる臣民もあるなれど、それは己の心のままぞ。

道に外れたものは、誰れ彼れはないのざぞ。

これまでのやり方、スックリと変へねば世は治まらんぞ、と申してあるが、上の人苦しくなるぞ。

途中の人も苦しくなるぞ。

お〇(かみ)のいふこときかん世になるぞ。

九月の十六日、 

ひつ九のか三。

 

133>138

天つ巻、第二十六帖(一三三)

天の日津久の神(あめのひつくのかみ)と申しても、一柱ではないのざぞ。

臣民のお役所のやうなものと心得よ。

一柱でもあるのざぞ。

この方は「オホカムツミノ神」とも現はれるのざぞ。

時により、所によりては、オホカムツミノ神として祀りて呉れよ。

青人草の苦瀬(うきせ)なほしてやるぞ。

天明は、神示(ふで)書かす御役であるぞ。 

九月十一日、

ひつ九Θ。

【明日香>私が初めてアイフォンで「あめのひつくかみ」と打ち込んで変換したら、『雨の日着く神』となってました・・・】

 

地つ巻、第一帖 (一三八)

地つ巻(くにつまき)、書き知らすぞ。

世界は一つの実言(みこと)となるのぞ。

それぞれの言の葉はあれど、実言(みこと)は一つとなるのであるぞ。

てん詞様の実言(みこと)に従ふのざぞ。

命(みこと)の世、近づいて来たぞ。

九月十五日、

一二Θ。

 

134>137

天つ巻、第二十七帖(一三四)

石物いふ時来るぞ。

草物いふ時来るぞ。

北おがめよ。北光るぞ。北よくなるぞ。

夕方よくなるぞ、

暑さ寒さ、やはらかくなるぞ。

五六七(みろく)の世となるぞ。

慌てずに急いで呉れよ。

神神様、みなの産土(うぶすな)様、総活動でござるぞ。

神神様まつりて呉れよ。

人人様まつりて呉れよ。

御礼申して呉れよ。

九月十二日、

一二か三。

【あさり>実は、もうすでに「石が物言う時」「草木が物言う時」は来ていますよ(╹◡╹)】

 

天つ巻、第三十帖(一三七)

富士とは火の仕組ぞ。

渦うみとは水の仕組ぞ。

今に分りて来るのぞ。

神の国には、政治も経済も軍事もないのざぞ。

まつりがあるだけぞ。

まつらふことによって何もかもうれしうれしになるのざぞ。

これは政治ぞ、これは経済ぞと申してゐるから「鰻つかみ」になるのぞ。

分ければ分けるほど分からなくなって、手におへぬことになるぞ。

手足は沢山は要らぬのざぞ。

火垂の臣(ひだりのおみ)と水極の臣(みぎりのおみ)とあればよいのざぞ。

「ヤ」と「ワ」と申してあろうがな。

その下に『七七ゝゝゝゝ』と申してあろうがな。

今の臣民、自分で自分の首くくるやうにしてゐるのぞ。

手は頭の一部ぞ。手の頭ぞ。

頭、手の一部でないぞ。

この道理よく心得ておけよ。

神示は印刷することならんぞ。

この神示説いて、臣民の文字で臣民に読める様にしたものは一二三(ひふみ)と申せよ。

一二三は印刷してよいのざぞ。印刷結構ぞ。

この神示のまま臣民に見せてはならんぞ。

役員よくこの神示見て、その時により、その国によりて、それぞれに説いて聞かせよ。

日本ばかりでないぞ。

国々ところところに仕組して神柱つくりてあるから、今にびっくりすること出来るのざぞ。

世界の臣民にみな喜ばれるとき来るのざぞ。

五六七(みろく)の世近づいて来たぞ。

富士は晴れたり日本晴れ、富士は晴れたり日本晴れ。

善一すぢとは神一すぢのことぞ。 

この巻を「天つ巻」と申す。

すっかり写して呉れよ。

すっかり伝へて呉れよ。

九月十四日、

ひつ九のか三。

(天つ巻 了)

 

135>136

天つ巻、第二十八帖(一三五)

おそし早しはあるなれど、一度申したこと必ず出て来るのざぞ。

臣民は近慾で疑ひ深いから、何も分らんから、疑ふ者もあるなれど、この神示一分一厘ちがはんのざぞ。

世界ならすのざぞ。神の世にするのざぞ。善一すじにするのざぞ。

誰れ彼れの分けへだてないのざぞ。

土から草木生れるぞ。草木から動物、 虫けら生れるぞ。

上下ひっくり返るのざぞ。

九月の十三日、

ひつ九のか三。

 

天つ巻、第二十九帖(一三六)

この方オホカムツミノ神として書きしらすぞ。

病あるかなきかは、手廻はして(て、まわして)見れば直ぐ分かるぞ。

自分の身体中どこでも手届くのざぞ。

手届かぬところありたら、病のところ直ぐ分るであろうが。

臣民の肉体の病ばかりでないぞ、心の病も同様ぞ。

心と身体と一つであるから、よく心得て置けよ。

国の病も同様ぞ。

頭は届いても手届かぬと病になるのぞ。

手はどこへでも届くやうになりてゐると申してあろが。

今の国々の「み姿」見よ。「み手」届いて居るまいがな。

手なし足なしぞ。

手は手の思ふ様に。足は足ぞ。これでは病直らんぞ。

臣民と病は、足、地に着いておらぬからぞ。

足、地に着けよ。

草木はもとより、犬猫も、みな「お土」に足つけて居ろうがな。

三尺上は神界ぞ。

お土に足入れよ。

青人草と申してあろうがな。

草の心に生きねばならぬのざぞ。

尻に帆かけてとぶようでは、神の御用つとまらんぞ。

お土踏まして頂けよ。

足を綺麗に掃除しておけよ。

足よごれてゐると病になるぞ。

足からお土の息がはいるのざぞ。

臍の緒(へそのお)の様なものざぞよ。

一人前になりたら臍の緒切り、社(やしろ)に座りて居りて三尺上で神につかへてよいのざぞ。

臍の緒切れぬうちは、いつもお土の上を踏まして頂けよ。

それほど大切なお土の上、堅めているが、今にみな除きて了ふぞ。

一度はいやでも応でも跣足(裸足=はだし)で「お土」踏(ふ)まなならんことになるのぞ。

神の深い仕組ざから、あり難い仕組ざから、喜んでお土拝めよ。

土にまつろへと申してあろうがな。

何事も一時に出て来るぞ。

お土ほど結構なものないぞ。

足のうら、殊に(ことに)綺麗にせなならんぞ。

神の申すやう素直に致されよ。この方、病直してやるぞ。

この神示よめば病直る様になってゐるのざぞ。

読んで神の申す通りに致して下されよ。

臣民も動物も草木も病なくなれば、世界一度に光るのぞ。

岩戸開けるのぞ。

戦も病の一つであるぞ。

国の足のうら掃除すれば、国の病直るのぞ。

国、逆立ちしてると申してあること忘れずに掃除して呉れよ。

上の守護神どの、

下の守護神どの、

中の守護神どの、

みなの守護神どの、

改心して呉れよ。

いよいよとなりては苦しくて、間に合はんことになるから、くどう気つけておくのざぞ。

病ほど苦しいものないであらうがな。

それぞれの御役忘れるでないぞ。

天地唸るぞ。

でんぐり返るのざぞ。

世界、一どにゆするのざぞ。

神はおどすのではないぞ、迫りて居るぞ。

九月十三日、

一二Θ。

 

2018年9月14日(金)21:08

レイアウト&審神者 ブースカ明日香

アドバイザー ひるこの“あさり”ちゃん、はじめ神神様