まぜまぜd(^_^o)ひふみ神示

下つ巻、第二十七帖(六九)に、「よむたび毎に神が気つける様に、声出して、よめばよむだけお蔭あるのぞ。」とあります。従いましてこちらのブログでは、選挙カーのアナウンス原稿や、演説原稿の様な、声に出して読みやすい。そんなレイアウトを目指してます(^^)。ブースカ明日香

まぜまぜd(^_^o)ひふみ神示・211〜240

まぜまぜに読まんとぞ思ふ。♪(*^^)o∀*∀o(^^*)♪

ひふみ神示・第六巻

日月の巻(ひつ九の巻)、全四十帖 

通し番号(一七四)~(二一三)

月の巻、第一八帖(一九一)~第四十帖(二一三)

自 昭和十九年旧九月一日(=昭和十九年十月一七日)

 昭和十九年十一月三十日

ひふみ神示、第七巻

日の出の巻、全二十三帖 

通し番号(二一四)~(二三六)

自 昭和十九年十二月 一日

 昭和十九年十二月二十九日

ひふみ神示、第八巻

磐戸の巻(一八十の巻)、全二十一帖

通し番号(二三七)~(二五七)

自 昭和十九年十二月三十日

 昭和十九年旧十一月三十日

【=昭和二十年一月十三日(参照)旧暦カレンダー(1945年1月)https://www.arachne.jp/onlinecalendar/kyureki/1945/1/)

 

211>240

日月の巻、第三十八帖(二一一)

大きアジアの国々や、

島々八十(しまじまやそ)の人々と、

手握り合ひ、神国の、

光り輝く時、来しと、

皆喜びて、三千年。

神の御業(みわざ)の時、来しと、

思へる時ぞ神国の、

まこと危なき時なるぞ。

夜半に(よわに)嵐のどっと吹く。

どうすることもなくなくに、

手足縛られ、縄付けて、

神の御子等(かみのみこら)を連れ去られ、

後には老人(としより)不具者(かたわ)のみ。

女子供もひと時は、

神の御子たる人々は、

悉々(いよいよ)暗い、臭い屋に、

暮さなならん時来るぞ。

宮は潰され、御文皆(みふみ、みな)、

火にかけられて灰となる。

この世の終り近づきぬ。

この神示(ふで)心に入れ呉れと、

申してある事わかる時、

愈々間近になりたぞよ。

出掛けた船ぞ。

褌締めよ。

十一月三十日、

ひつ九のか三。

 

磐戸の巻、第4帖(240)

この方、「この世のあく神」とも現はれるぞ。

「閻魔(えんま)」とも現はれるぞ。

アクと申しても、臣民の申す悪ではないぞ。

善も悪もないのざぞ。

審判(さばき)の時来てゐるのに、キづかぬか。

其の日、其の時、さばかれてゐるのざぞ。

早う洗濯せよ、掃除せよ。

磐戸(ゐわと)いつでもあくのざぞ。

善の御代、来るぞ。

悪の御代、来るぞ。

悪と善とたてわけて、どちらも生かすのざぞ。

生かすとは、神のイキに合すことぞ。

イキに合へば、悪は悪でないのざぞ。

この道理、よく肚に入れて、神の心、早うくみとれよ。

それが洗濯ざぞ。

一月二日、

Θのひつ九のか三。

 

212>239

日月の巻、第三十九帖(二一二)

喜べば、喜ぶ事出来るぞ。

悔やめば、悔やむ事出来るぞ。

先の取越苦労(とりこしぐろう)は要らんぞ。

心くばりは要るぞ、と申してあろがな。

神が道つけて、楽にゆける様に、

嬉し嬉しで、どんな戦も切抜ける様にしてあるのに、

臣民逃げて、眼塞いで、

懐手(ふところで)してゐるから、苦しむのぞ。

我れよしと云ふ「悪魔」と「学」が邪魔してゐる事にまだ気付かぬか。

嬉し嬉しで暮らせるのざぞ。

日本の臣民は、何事も見えすく「身魂」、授けてあるのざぞ。

神の御子ざぞ。

掃除すれば、何事もハッキリとうつるのぞ。

早よ判らねば、口惜しい事出来るぞ。

言葉と、

この神示と、

心と、

行と、

時の動きと、

五つ揃たら「誠の神の御子」ぞ。

神ぞ。

十一月三十日、

ひつ九のか三のふで。

 

磐戸の巻、第3帖(239)

二二は晴れたり、日本晴れ。

びっくりばこ、いよいよとなりたぞ。

春マケ、

夏マケ、

秋マケ、

冬マケて

ハルマゲドン、となるのざぞ。

早う改心せんと、ハルマゲドンの大峠、こせんことになるぞ。

大峠となりたら、どんな臣民もアフンとして、もの云へんことになるのざぞ。

なんとした取違ひでありたかと、じだんだふんでも、其時(そのとき)では間に合はんのざぞ。

十人なみのことしてゐては、今度の御用は出来んのざぞ。

逆様(さかさま)にかへると申してあろが。

大洗濯ざぞ。

大掃除ざぞ。

ぐれんざぞ。

二二に花咲くぞ。

一月一日、

Θのひつ九か三。

 

213>238

日月の巻、第四十帖(二一三)

ここに伊邪那美の命(いざなみのみこと)、語らひつらく、

「あれ、みましとつくれる国、末だつくりおへねど、時まちてつくるへに、よいよ待ちてよ。」

と宣り給ひき(のりたまいき)。

ここに伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、

「みまし、つくらはねば、吾(あ)とく、つくらめ。」

と宣り給ひて、

「帰らむ」と申しき。

ここに伊邪那美命、九(こ)聞き給ひて、

御頭(みかしら)に

大雷(おおいかつち)、

オホイカツチ、

胸に

火の雷(ホのいかつち)、 

ホノイカツチ、

御腹には 

黒雷(くろいかつち)、 

黒雷(クロイカツチ)、 

かくれに

折雷(さくいかつち)、 

サクイカツチ、 

左の御手に

若雷(わきいかつち)、 

ワキ井カツチ、 

右の御手に

土雷(つちいかつち)、

ツチイカツチ、

左の御足に

鳴雷(なるゐかつち)、

ナルイカツチ。

右の御足に

伏雷(ふしいかつち)、

フシ井カツチ、 

なり給ひき。

伊邪那岐の命、是見(こみ)、畏みて(かしこみて)、とく帰り給へば、

伊邪那美命(いも、いざなみのみこと)は、「よもつしこめ」を追はしめき。

ここに伊邪那岐命、「黒髪かつら」取り、

また「湯津々間櫛(ゆつつまぐし)」引きかきて、

なげ棄(う)て給ひき。

伊邪那美命

「二の八くさの(つきのやくさの)雷神(いかつちかみ)」に、黄泉軍(よもついくさ)副へて(そへて)追ひ給ひき。

ここに伊邪那岐命、「十挙剣(とづかのつるぎ)」抜きて、後手(しりへて)にふきつつさり、 

三度黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に到り給ひき。

坂本なる桃の実、一二三(ひふみ)取りて、待ち受け給ひしかば、ことごとに逃げ給ひき。

ここに伊邪那岐命、桃の実に宣り給はく、

「汝(みまし)吾助けし如(あ、たすけし、ごと《或いは、たすけし、ごとく》)、あらゆる青人草の苦瀬(うきせ)になやむことあらば、助けてよ」

と宣り給ひて、

「また葦原の中津国に、あらゆる『うつしき青人草』の、苦瀬に落ちて苦しまん時に助けてよ」

とのり給ひて、 

おほかむつみの命、

オオカムツミノ命

と名付け給ひき。

ここに伊邪那美命(いざなみのみこと)、息吹き給ひて(いぶきたまいて)千引岩(ちびきいわ)を黄泉比良坂に引き塞(そ)へて、

その石、なかにして合ひ向ひ立たして、つつしみ申し給ひつらく、

「うつくしき吾が那勢命(あが、なせのみこと)、時廻り来る時あれば、この千引の磐戸、共にあけなん」

と宣り給へり、

ここに伊邪那岐命

「しかよけむ」

と宣り給ひき。

ここに妹伊邪那美の命(いも、いざなみのみこと)、

「汝の国の人草、日にちひと死」【明日香>「汝=みまし」「ちひと=千人」「死=まけ」《みましのくにの、ひとくさ、ひに、ちひと、まけ。》】

と申し給ひき。

伊邪那岐命、宣り給はく、

「吾は一日(ひとひ)に千五百(ちいほ)生まなむ」

と申し給ひき。

この巻、二つ合して日月の巻とせよ。

十一月三十日、

ひつ九のか三。

(日月の巻了)

【あさりより>さてみなさん、ここで何か疑問を感じませんか?『いざなぎ』さんは、頭から両手足、胸・腹・隠れに『八組(八箇所、二柱づつ)の雷神(いかつちかみ、=らいじん)』を身に纏った愛する妻、いざなみさんの姿を見て、震え上がり、彼女の前から逃げ去りました。

一方、いざなみさんは、彼の前に姿を現した途端、勝手に恐れられました。慌てて逃げ行く「連れ合いさん」。彼のことを夢中で追いかけたのは、心が悲しみでいっぱいになったからに決まってます。

その時、自分の応援をしてくれるのは、身体に纏った「八組の雷神」さんと「よもつしこめ」「よもついくさ」のみなさん。

これらの方々が、いざなみさんの願いに応えて、彼を引き止めようとするのは自然の流れでしょう。

その後は、いざなぎさんが、黄泉比良坂にあった桃の実で、黄泉軍(よもついくさ)を追い払い、桃の木に神の名前をつけてあげる。ここまでは神話と同じですよね。

だけど、その先、

『千引き岩を引いて、二人の間を分けた』のは、他ならぬ『いざなみのみこと』となってますよね。

神話で言われるように、「いざなぎのみこと」ではないのです。

つまり相当な決意の元、いざなみ自身が、愛する連れ合いさんに別れを告げたのです。

その思いが、次の言葉

「~~、時廻り来る時あれば、この千引の磐戸、共にあけなん。」

この言葉には、彼女のいざなぎさんへの愛が満ち溢れています。そう、

「いつかは貴方(=いざなぎのみこと)と一緒に、この岩戸を開けましょう」

と呼びかけたのです。

その思いが本物ならば、なぜ?その言葉の直後に

「あんたの国の人、一日千人死んでしまえ!」

などとと言い放ったのでしょうか?

みなさん、実はこのセリフ、

『いざなみさん本人のセリフではありません!』

千引岩に隠れた何者かに、自分の想いと全く違うことを、愛するいざなぎさんに吹聴されたのです。まさしく「なりすまし」がはいたセリフ、なのです。

この件については、改めてお知らせしますね

明日香>実は、いざなみさんについては、この七月、ご本人が福岡市の「能古島(のこのしま)」から復活なされています、ゴジラの姿形で(^◇^;)。

そして、あさりちゃんが指摘している事柄については、私を含めて複数の霊能者が、いざなみさんご本人より、おはなしをお聞きしております。

なりすましの犯人は、「名前のない神」だそうです。おそらくそれは、真犯人「総裁X」と同一の存在(=神様)だと推測しております。】

 

磐戸の巻、第2帖(238)

「キ」つけてくれよ。

「キ」がもとざぞ。

「キ」から生れるのざぞ。

「心くばれ」と申してあろが。

心のもとは「キ」ざぞ。

総てのもとは「キ」であるぞ。

「キ」はΘ (よろこび)ざぞ。

臣民みなに、それぞれの「キ」うへつけてあるのざぞ。 

うれしキは、うれしキことうむぞ。

かなしキは、かなしキことうむぞ。

おそれは、おそれうむぞ。

喜べば、喜ぶことある、と申してあろがな。

天災でも人災でも、臣民の心の中にうごく「キ」のままになるのざぞ。

この道理、わかるであろがな。

爆弾でも、あたると思へばあたるのざぞ。

おそれるとおそろしことになるのざぞ。

ものは「キ」から生れるのざ。

「キ」がもとぞ。

くどくキづけておくぞ。

「ムのキ」動けば「ム」くるぞ。

「ウのキ」うごけば「ウ」来るぞ。

どんな九十(コト)でも「キ」あれば出来るぞ。

「キ」からうまれるぞ。

勇んで(いさんで)神の御用つとめて下されよ。

十二月三十一日、

Θの一つ九Θ。

 

214>237

日の出の巻、第一帖(二一四)

春とならば、萌出づる(もえいずる)のざぞ。

草木許り(くさきばかり)でないぞ。

何もかも、もえ出づるのぞ。

此の方の申す事、譬(たとへ)でないと申してあろが。

少しは会得(わか)りたか。

石、もの云ふ時来たぞ。

此の道早く知らして呉れよ。

岩戸は五回、閉められてゐるのざぞ。

那岐(なぎ)、那美(なみ)の尊(みこと)の時。

天照大神(あまてらすおおかみ)の時。

神武天皇(じんむてんのう)の時。

仏(ほとけ)来た時と。

大切なのは、須佐之男神様(すさなるのかみさま)に、罪着せし時。

その五度の岩戸閉めであるから、此度の(このたびの)岩戸開きは、なかなかに大そうと申すのぞ。

愈々きびしく成ってきたが、此れからが正念場ざぞ。

否でも応でも、裸にならな、ならんぞ。

裸程(はだかほど)結構なもの無い事、始めて会得りて来るぞ(はじめてわかりてくるぞ)。

十二月一日、

一二Θ。

 

磐戸の巻、第一帖(二三七)

イワトの巻、かき知らすぞよ。

イワトひらくには、神人共に、ゑらぎにぎはふ【えらぎ、賑わう>明日香】のざぞ。

ミカカリして、唱ひ舞ふ【とない、まう=唱えて、舞う>明日香】のざぞ。

ウズメノミコト、いるのざぞ。

ウズメとは女(おみな)のみでないぞ。

男(おのこ)もウズメざぞ。

「女のタマは男、男のタマは女」と申してあろがな。

ヤミの中で踊るのざぞ。

唄ふのざぞ。

皆のもの、ウズメとなりて下されよ。

「暁(あけ)つげる十理(とり)」となりて下されよ。

ミカカリて、舞ひ唄ひ下されよ。

ミカカリでないと、これからは何も出来ぬと申してあろがな。

十二月三十日、

Θの一二Θ。

【あさりより>あめのうずめのみこと、通称「うずめちゃん」からの伝言。ここでも、日本神話は大きな嘘をついています。それは、天の岩戸開きの時、彼女はたしかに歌い踊ったのですが、決して裸で踊ったりしておりません!。

ましてや、踊り狂ったりなどしておりません!!。

そして、この時の岩戸開きは、形のうえでは成功したようにみえますが、実は失敗に終わったのです。その原因の一つが「合わせ鏡」を使ってしまった事。これにより、うつし世(=現世界)が出来てしまったのです。

つまり

(1)本当の太陽は未だ「隠れたまま」別次元(=神示で言うところの、元の世。)に存在している。

(2)合わせ鏡の「光の増幅作用」によって、月が太陽へと変貌した。

(3)合わせ鏡の「無限反射」により、「虚構の無限宇宙」が形成された。

(4)人工的な月が作られた。

などなど、とにかくこの「地球」そのものを取り巻く空間全てが、虚構の存在に変わってしまったのです。

だからこそ、今度こそ!本当の磐戸開きが必要になるのです。

水鏡を用意して、参加する全員で「静かに歌い」、「ゆったりと踊る」。このことが、磐戸を開く「本物の力」となります。】

 

215>236

日の出の巻、第二帖(二一五)

九歳(とし)は神界の紀(もと)の年ぞ。

神始めの年と申せよ。

一二三(ひふみ)、

三四五(みよいづ)、

五六七(みろく)ぞ。

『五の歳は子の歳』ざぞよ。

取違ひせん様にせよ。

月日の巻、十人と十人の役員に見せてやりて呉れよ。

時節到来したのであるぞ。

桜咲き、神の御国は明けそめにけり。

十二月二日、

ひつ九のか三しらす

【明日香より>参考までに。2020年は「子年」。高天原山事変から「35年目」。もしかしたら・・・。しかし下手したら『取り違え』に繋がりかねないので、今はこれ以上の言及は控えます。】

 

日の出の巻、第二十三帖(二三六)

此の世の位もいざとなれば、「宝」も「富」も「勲章」も役には立たんのざぞ。

此の世去って、役に立つのは、身魂の徳だけぞ。

身についた芸は、其の儘(そのまま)役立つぞ。

人に知れぬ様に徳つめと申してあろがな。

神の国に積む徳のみが光るのざぞ。

マアカタの御用、結構であったぞ。

富士晴れるぞ。

湖(うみ)晴れるぞ。

此の巻、「日の出の巻」として、纒めて(まとめて)役員に読ませて、一二三として皆に知らせて呉れよ。

神急ぐぞ。

十二月二十九日、

ひつ九のか三。

(日の出の巻、了)

 

216>235

日の出の巻、第三帖(二一六)

次の世とは、『通基(月)の世』の事ざぞ。

一二(ひつき)の通基(二)の世ぞ。

『Θ「🌙=」』の月の世ぞ。【明日香>「🌙=」>「白抜き」の三日月の中に、二本の横線。読み方は『書いていません!』】

取違ひ、せん様に致して呉れよ。

智や学がありては、邪魔になるぞ。

無くてもならぬ、六ヶ敷い仕組ぞ。

月の神様、祀りて呉れよ。

素盞鳴(すさなる)の神様、祀りて呉れよ。

今に会得る(わかる)事ぞ。

「日暮」よくなるぞ。

日暮 (一九れ)に祀り呉れよ。

十柱揃ふたら、祀り呉れい、と申してあらうがな。

神せけるのざぞ。

十二月二日、

ひつくのかみふで。

【あさりより>五回にわたる「磐戸閉め」により、元々の月は、太陽に変わってしまいました。そうです。私たちが今「太陽」として仰いでいるのは、本当は「月」なのです。それではいったい、夜空で満ち欠けしている現世界の「月」とは、いったい如何なる存在なのか?

そもそも「地球」はボール状の天体ではなく、「平面」。だから「ガイア」と呼ぶのです。

そして「夜」も「宇宙」も「存在しない」。

宇宙とは、「合わせ鏡」に映し出された幻の世界。単なる「無限映像」なのです。

つまり、「宇宙に旅立つ」ことなど叶わないのです。

だからこそ、今の「合わせ鏡」の世界を取り払い、「水鏡」で元の世界へと帰ってゆくことが必要になってくるのです。

もとの世界に帰るとき、必要なのが「御魂の徳」、すなわち神人が一体となり、澄み切った御魂になることなのです。

濁ったままの御魂では、水鏡を通過できませんよ!!となるのです。

ですから、ひつくの神様は、魂の掃除をせよ、洗濯をせよ、と何回も仰っておられるのです。】

 

日の出の巻、第二十二帖(二三五)

左は「火」ぞ。

右は「水」ざぞ。

「Θ」の神と「🌀」の神ぞ。

「日の神」と「月の神」ざぞ。

「日の神」許り(ひのかみばかり)拝んで、「月の神」忘れてはならんぞ。

人に直接(じきじき)恵み下さるのは「🌀」の神、月神ぞ。

ぢゃと申して「日の神」疎かに(おろそかに)するでないぞ。

「水」は身を護る神さぞ。

「火」は魂(たま)護る神ざぞ。

火と水とで組み組みて、人ぞ。

身は「水」で出来てゐるぞ。

「火」の魂入れてあるのざぞ。

国土(くにつち)も同様ぞ。 

「🌀海」の御用、大切ざぞ。

十二月二十八日、

ひつ九のか三。

~~~~~~~~~

日の出の巻、第二十二帖(二三五)・原文

ヒたり(ひダり)八火三三(ザゾ)

三キリ(みギリ)八水三三(ザゾ)

Θ(ヒツキ)のか三(ミ)十(と)🌀(ウズ)のか三(み)三(ゾ)

Θ(ヒ)のか三十月(ト、ツキ)のか三三(ゾ)

Θ(ヒ)のか三八(バ)かりおろかんで(おろガんで)月(ツキ)のか三〇(ワ)すれて八七(ナ)らん三(ゾ)

一十二(ヒト2=ひとに)ちきゝ(ヂきヂき)め九三九た三る(めグミクダサる)の八🌀のか三月(ツキ)のか三三(ミゾ)

三十(ザト)百四て(モーシて)Θ(ヒ)のか三おろそか二するて七一三(するデナイゾ)

三(ミズ)八三(ミ)をまもるか三三三(かミザゾ)

一八(ヒは)たままもるか三三三(かミザゾ)

一十(ヒト)三(ミズ)十て(トで)九三九三て(クミクミて)一十三(ヒトゾ)

三(ミ)八水てて(身はみずデデ)きて一(イ)る三(ゾ)

一(ヒ)のたま一(イ)れてあるの三三(ザゾ)

九二(クに)つち百(モ)十四三(ドーヨーゾ)

🌀(ウズ)う三の五四(ゴヨー)た一せつ(たイせつ)三三(ザゾ)

十二かつ二十八にち

ひつ九のか三

~~~~~~~~~~

 

217>234

日の出の巻、第四帖(二一七)

旧十月八日、

十八日、

五月五日、

三月三日は

幾らでもあるぞと申してあろが。

此の日は臣民には恐い日であれど、神には結構な日ざぞ、と申してあろが。

神心になれば、

神とまつはれば、

神とあななへば、

臣民にも結構な日となるのぞ。

其の時は五六七(みろく)の世となるのざぞ。

桜花(さくらばな)一度にどっと開く世となるのざぞ。

神激しく、臣民静かな御代となるのざぞ、

日日毎日(ひにちまいにち)、富士晴れるのざぞ。

臣民の、

心の富士も晴れ晴れと、

富士は晴れたり日本晴れ。

心晴れたり日本晴れぞ。

十二月二日、

ひつくのかみ。

 

日の出の巻、第二十一帖(二三四)

神かかりと申しても、七つあるのであるぞ。

その一つ一つがまた七つに分れてゐるのざぞ。

「Θ」ガカり、【明日香>実際の表記は、Θガカり】

かみかかり、

か三かゝりぞ。

「ゝ(カミ)」ガカリぞ、 【明日香>実際の表記は、ゝガカリ】

「〇(かみ)」かゝり、【明日香>実際の表記は、〇かゝり】

か三かゝり、【明日香>この場合のゝは、繰り返し記号。なので、か三かかり】

かみかゝり、【明日香>この場合のゝは、繰り返し記号。なので、かみかかり】

ざぞ。

「神かゝってゐない」と見える「神カカリ」が、「誠の神カカリ」と申してあろが。

そこらに御座る「神憑」は、五段目六段目の神憑ぞ。

「神カカリ」とは「惟神(かむながら)」の事ぞ。

これが神国の真事(まこと)の臣民の姿ぞ。 

神の国、惟神ぞ。

神と人と融け合った、真事の姿ぞ(まことのすがたぞ)。

今の臣民のいふ惟神では無いぞ。

此の道理、会得りたか。

真事の神にまつりあった姿ぞ。

「悪の大将の神憑」は、「神憑」と分らんぞ。

気つけて呉れよ。

これからは「神カカリ」でないと何も分らん事になるのざぞ。

早う「神カヽリ」になる様、掃除して呉れよ。

神の息吹に合ふと「神カカリ」になれるのぞ。

一二三唱へよ、祓え、のれよ。

神称へよ、人称へよ(ひと、たヽえよ)。

神は人誉め(ひと、ほめ)、人は神称へてまつり呉れよ、

まつはり呉れよ、

あななひ呉れよ。

十二月二十七日、

ひつ九のか三。

 

218>233

日の出の巻、第五帖(二一八)

右(みぎり)に行かんとする者と

左り(ひだり)に行かんとするものと

結ぶのが「🌀」の神様ぞ。

「🌀」の神様とは「素盞鳴の大神様」ざぞ。

この御用(はたらき)によりて、生命あれるのぞ。

力、生れるのぞ。

「🌀」がまつりであるぞ。

神国の祀(まつり)🌀であるぞ。

神はその、全き姿ぞ(まっときすがたぞ)。

神の姿ぞ。

「男の魂は女【あさり>おのこのたまはおみな】、女(おんな>原文のルビ)の魂は男」と申して知らしてあろがな。

十二月三日、

ひつ九のかみ。

 

日の出の巻、第二十帖(二三三)

今度は、世に落ちておいでなされた神々様をあげねばならぬのであるぞ。

臣民も其の通りざぞ。

神の申す通りにすれば、何事も思ふ通りに、すらすらと進むと申してあろがな。

此れからは、神に逆らふものは一つも埓あかんぞ(らち、あかんぞ)。

やりてみよれ、九分九厘でぐれんざぞ。

神の国は何うしても助けなならんから、神が一日一日と延ばしてゐること会得らんか。

皆の者がかみを軽くしてゐるから、お蔭なくなってゐるのざぞ。

世の元の神でも、御魂となってゐたのでは、まことの力出ないのざぞ。

今度の経綸(しぐみ)は、世の元の生き通しの神でないと間に合はんのざぞ。

何処【どこ、いずこ>明日香】の教会も元はよいのであるが、取次役員(とりつぎやくいん)がワヤにしてゐるのぞ。

今の様(さま)は何事ぞ。

此の方は、力あり過ぎて失敗った(しくじった)神ざぞ。

此の世かもう神でも、我、出すと失敗るのざぞ。

何んな力あったとて、我、出すまいぞ。

此の方がよい手本(みせしめ)ぞ。

世界かもう此の方さへ、我で失敗った【しくじった>明日香】のぞ。

執念(くど)い様なれど、我、出すなよ。

「慢心」と「取違ひ」が一等気ざはりざぞ。

改心ちぐはぐざから、物事後先になりたぞ。

経綸少しは変るぞ。

今の役員、「神の道」広めると申して、我(われ)を弘めてゐるでないか。

そんな事では役員とは言はさんぞ。

今迄は神が世に落ちて、人が神になりておりたのぞ。

これでは世は治まらんぞ。

神が上(かみ)で、

臣民、人民、下におらねばならんぞ。 

吾が苦労して人救ふ心でないと、今度の岩戸開けんのざぞ。

岩戸開きの御用する身魂は、吾の苦労で人助けねばならんのざ。

十年先は、五六七(みろく)の世ざぞ、

今の人間、鬼より蛇より邪見ざぞ。

蛇の方が早う改心するぞ。

早う改心せねば、泥海にせなならんから、神は日夜の苦労ぞ。

道は一つと申してあろがな。

二つ三つ四つ、あると思ふてはならんぞ。

「足元から鳥立つ」と申してあろが。

臣民、火がついても、まだ気付かずにゐるが、

今に体に(からだに)火ついて、「チリチリ舞ひ」せなならんことになるから、

神、執念(くどう)気つけておくのざぞ。

「三四」気つけて呉れよ。

神の国は神の力で、何事も思ふ様に行く様になりてゐるのに、学や智に邪魔されてゐる臣民ばかり。

早う気付かぬと、今度と云ふ今度は取返しつかんぞ。

見事なこと、神がして見せるぞ。

見事なことざぞ。

人間には恐しいことざぞ。

大掃除する時は、棚のもの、下に置く事あるのざぞ。

下にあったとて、見下げてはならんぞ。

この神は、神の国の救はれること、一番願ってゐるのざぞ。

外国人も神の子ではあるが、性来が違ふのざぞ。

神の国の臣民が、まことの神の子ざぞ。

今は曇りてゐるなれど、元の尊い種、植えつけてあるのざぞ。

曇り、取り去りて呉れよ。

依怙(えこ《明日香>えこひいき》)の様なれど、外国は後廻しぞ。

同じ神の子でありながら、神の臣民の肩持つとは公平でない、と申す者あるなれど、それは昔からの深い経綸であるから、臣民には会得 ん(わからん)ことであるぞ。

一に一足す二でない(いちにいちたす、にでない)、と申してあろが。

何事も神の国から、神の臣からぞ。

洗濯も同様ぞ。

今度の御用外したら(ごよう、はずしたら)、何時になりても取返しつかんことになるのざから、心して御用して呉れよ。

遣り損なひ(やりそこない)出来ないことになりてゐるのざぞ。

天に一柱、

地に一柱、

火にも焼けず、

水にも溺れぬ

元の種

隠しておいての、今度の大建替ぞ。

何んなことあっても、人間心で心配するでないぞ。

細工は隆々(さいくはりゅうりゅう)、仕上げ見て呉れよ。

此の神はめったに間違いないぞ。

三千年、地に潜りての経綸(けいりん)で、

悪の根まで調べてからの経綸であるから、

人間殿、心配せずに、神の申す様、素直に致して下されよ。

末法の世(まっぽうのよ)とは、地の上に、大将の器(うつわ)無くなりてゐることざぞ。

オロシヤの悪神(あく)と申すは、泥海の頃から生きてゐる「悪の親神」であるぞ。

北に気つけて呉れよ。

神の国は結構な国で、世界の真中の国であるから、

悪の神が日本を取りて、末代の住家とする計画で、

トコトンの智恵出して、

何んなことしても取る積りで、愈々を始めてゐるのざから、

余程褌(よほど、ふんどし)締めて下されよ。

日本の上に立ちて居る「守護神」に分りかけたら、ばたばたに埓あくぞ。

早う改心して呉れよ。

十二月二十六日、

一二Θ。

 

219>232

日の出の巻、第六帖(二一九)

神界の事は、人間には見当取れんのであるぞ。

学で幾ら極め様とて、会得りはせん(わかりはせん)のざぞ。

学も無くてはならぬが、囚はれると(とらわれると)悪となるのざぞ。

しもの神々様には、現界の事は会得りはせんのざぞ。

会得らぬ神々に使はれてゐる肉体、気の毒なから、身魂磨け磨けと執念(くどう)申してゐるのざぞ。

三、四月に気つけて呉れよ。

どえらい事出来るから、何うしても磨いておいて下されよ。

それまでに型しておいて呉れよ。

十二月五日、

ひつ九のかみ。

 

日の出の巻、第十九帖(二三二)

海には「神の石」鎮め(しずめ)、祀り呉れよ。

山には「神の石」立てて、「樹」植えて呉れよ。

石は神の印つけて、祀る処に置いてあるぞ。

祀り結構ぞ。

「富士奥山」には、十柱の石あるぞ。

「十柱」祀りて呉れよ。

祀る処に行けば分る様にしてあるぞ。

十二月二十二日、

ひつ九のか三。

 

220>231

日の出の巻、第七帖(二二〇)

おろしやにあがりておりた極悪の悪神、

愈々神の国に攻め寄せて来るぞ。

北に気つけと、

北が愈々のキリギリざと申して執念(くどう)気つけてありた事、近ふなりたぞ。

神に縁深い者には、深いだけに「見せしめ」あるのざぞ。

国々もその通りざぞ。

神には依怙(えこ)無いのざぞ。

「ろしあの悪神」の御活動と申すものは、神々様にも「これは到底かなはん」と思ふ様に、激しき御力ぞ。

臣民と云ふものは、神の言葉(こと)は会得らんから、「悪神の事に『御』とつけるのは会得らん」と申すであろが、

『御』とは力一杯の事、精一杯の事を申すのであるぞ。

何処から攻めて来ても、神の国には悪神には分らん仕組致してあるから、心配ないのざぞ。

愈々と成りた時には、神が誠の神力出して、

天地ゆすぶって、

トコトン降参ざと申す処まで、

ギュウギュウと締めつけて、

「万劫末代(まんごうまつだい)、いふ事聞きます。」

と改心する処までゆすぶるから、

神の国、神の臣民、心配致すでないぞ。

心大きく、御用して呉れよ。

何処に居ても、御用してゐる臣民、助けてやるぞ。

十二月六日、

ひつ九か三。

 

日の出の巻、第十八帖(二三一)

富士の御用は、奥山に祀り呉れよ。

カイの御用も続け呉れよ。

江戸一の宮、作りて呉れよ。

道場も同じぞ。

「🌀」海の御用とは、

「🌀」海の鳴門(なると)と、

「🌀」海の諏訪と、

「🌀」海のマアカタと、

三所へ祀りて呉れよ。

その前の御用、言葉で知らした事、済みたぞ。

「🌀」海マアカタとは印幡ぞ。

十柱とは

火の神(ひのかみ)、

木の神(きのかみ)、

金の神(きんのかみ)、

日出之神(ひのでのかみ)、

竜宮の乙姫(りゅうぐうのおとひめ)、

雨の神(あめのかみ)、

風の神(かぜのかみ)、

地震の神(じしんのかみ)、

荒の神(あれのかみ)、

岩の神(いわのかみ)

であるぞ。

辛酉の日(かのととり)に祀りて呉れよ。 

暫く御神示、出ないぞ。

皆の者、早く今迄の神示、肚に入れて呉れよ。

神せけるぞ。

神示読めば神示出て来るぞ。

神祀り、早く済せて呉れよ。

十二月二十一日朝、

一二のか三。

 

221>230

日の出の巻、第八帖(二二一)

一二三(ひふみ)の食物(たべもの)に病無い、と申してあろがな。

一二三の食べ方は、一二三唱へながら(ひふみ“十七”えながら)噛むのざぞ。

四十七回噛んでから呑むのざぞ。

これが一二三の食べ方、頂き方ざぞ。

神に供へてから、此の一二三の食べ方すれば、何んな病でも治るのざぞ。

皆の者に広く知らしてやれよ。

心の病は「一二三唱へる事」に依りて治り、

肉体の病は「四十七回噛む事」に依りて治るのざぞ。

心も身も分け隔て無いのであるが、会得る様に申して聞かしてゐるのざぞ。

取り違い致すでないぞ。

日本の国は此の方の肉体、と申してあろがな。

何んな宝もかくしてあるのざぞ。

神の御用なら、何時でも、何んなものでも与へるのざぞ。

心大きく持ちて、どしどしやりて呉れよ。

集団(まどい)作るなと申せば、ばらばらでゐるが、裏には裏あると申してあろが。

心配れ(こころくばれ)よ。

十二月七日、

ひつくのかみふで。

 

日の出の巻、第十七帖(二三〇)

何もかもひっくるめて建直しするのであるから、

何処から何が出て来るか分らんぞ。

御用はそれぞれの役員殿、手分けて努めて呉れよ。

皆のものに手柄さし度いのぞ(てがら、さしたいのぞ>明日香)。

一ヶ処(ひとところ)の御用、二人宛 (づつ)でやりて呉れよ。

結構な御用であるぞ。

いづこも仮であるぞ。

世が変りたら、結構に真通理(まつり)呉れよ。

今は型であるぞ。

祀れと申してあること、忘れるなよ。

まつはらねばならぬのざぞ。

神がついてゐるのざから、神の申す通りにやれば「箱指した様に」行くのざぞ。

産土神(うぶすなさま)忘れずにな。

十二月十九日、

ひつ九か三。

 

222>229

日の出の巻、第九帖(二二二)

人、神とまつはれば、喜悦しうれしぞ(うれしうれしぞ)。

まつはれば人でなく、神となるのぞ。

それが真実(まこと)の神の世ぞ。

神は人にまつはるのざぞ。

「ゝ」と「〇」と申してあろが。

戦も、「ゝ」と「〇」と壊し合ふのでは無いぞ。

「ゝ」と「〇」とまつらふことぞ。

岩戸開く「一つの鍵」ざぞ。

和すことぞ。

神国真中に、和すことぞ。

それには「〇」掃除せなならんぞ。

それが今度の戦ぞ。

戦の大将が、神祀らねばならんぞ。

「二四(にし)」は「剣(つるぎ)」ざぞ。

神まつりは、神主ばかりするのではないぞ。

「剣」と「鏡」とまつらなならんぞ。

まつはれば、霊(たま)となるのざぞ。

「霊」なくなってゐると申して、知らせてあろがな。

政治も、教育も、経済の大将も、神祀らねばならんのぞ。

「天の天照皇大神様」は更なり。

天の大神様、

地(くに)の天照大神様、

天照皇太神様、

月の神様、 

特に篤く(あつく)祀り呉れよ。

月の大神様、御出でまして、闇の夜は月の夜となるのざぞ。

「素盞鳴の大神様」も篤く祀りて呉れよ。

此の神様には毎夜毎日、

御詑びせなならんのざぞ。

此の世の罪穢(つみけがれ)負はれて、陰から守護されて御座る、尊い御神様ぞ。

地の御神様、土の神様ぞ。

祓ひ清め(はらい、きよめ)の御神様ぞ。

国々の産土の神様(うぶすなのかみさま)祀り呉れよ。

遅くなればなる程、苦しくなるのざぞ。

人ばかりでないぞ。

十二月八日、

ひつ九のか三。

 

日の出の巻、第十六帖(二二九)

悪の衣(ころも)着せられて、

節分に押込められし神々様、

御出でまし(おでまし)ぞ。

此の節分からは、愈々神の規則通りになるのざから気つけておくぞ。

容赦(ようしゃ)は無いのざぞ。

それまでに型さしておくぞ。

御苦労なれど型してくれよ。

「ヤ」の身魂、御苦労。

「石」なぜもの言はぬのぞ。

愈々となりてゐるではないか。

春になりたら何んな事あるか分らんから、今年中に心の洗濯せよ。

身辺(みのまわり)洗濯せよ。

神の規則、臣民には堪れん(こばれん《拒否できない⁇耐えられない?>明日香》)ことあるも知れんぞ。気つけておくぞ。

十二月十九日、

一二Θ。

 

223>228

日の出の巻、第十帖(二二三)

桜咲き、神の御国は明けそめにけり。

十月になったら、ぼつぼつ会得るぞ(ぼつぼつ、わかるぞ)と申してあろがな。

叩(はたき)かけて、ばたばたと叩く処もあるぞ。

箒(ほうき)で掃く処もあるぞ。

雑巾かけしたり、水流す処もあるのざぞ。

掃除始まったら、ばたばたに埒つくと(らちつくと)申してあろがな。

めぐりだけの事は、今度は何うしても、借銭無しにするのざぞ。

花咲く人もあるぞ。

花散る人もあるぞ。

「あめのひつ九のかミ」の御神名、書かすぞ。

それを皆の者に分けてやれよ。

聴き度い事は、サニワで聞けよ。

「何んなことでも聞かしてやる」と申してあろがな。

神せけるぞ。

火吹くぞ。

火降るぞ。

十二月十日、

ひつくのか三。

 

日の出の巻、第十五帖(二二八)

十柱の神様、奥山に祀りて呉れよ。

九柱でよいぞ。

何れの神々様も、世の元からの肉体持たれた、生き通しの神様であるぞ。

この方合はして、十柱となるのざぞ。

御神体の石、集めさしてあろがな。

篤く祀りて、辛酉(かのととり)の日にお祭りして呉れよ。

病あるか、ないか。

災難来るか、来ないかは、

手届くか、届かないかで分る、と申してあろがな。

届くとは注ぐ(そそぐ)事ぞ。

手首の息と、腹の息と

首の息と、頭の息と

足の息と、胸の息と

臍(へそ)の息と、脊首(せくび)の息と

手の息と

八所十所の息、合ってゐれば、病無いのざぞ。

災難見ないのざから、

毎朝神拝みてから、克く合はしてみよ。

合ってゐたら、其日には災難無いのざぞ。

殊に臍の息、一番大切ざぞ。

若しも息合ってゐない時には、一二三(ひふみ)唱へよ。

唱へ唱へて、息合ふ迄祷のれよ(ゐのれよ)。

何んな難儀も災難も、無くしてやるぞ。

此の方、意富加牟豆美神(オホカムツミノカミ)であるぞ。

神の息と合はされると、災難、病無くなるのざぞ。

大難、小難にしてやるぞ。

生命助けてやるぞ。

此の事は、此方信ずる人でないと誤るから、知らすではないぞ。

手二本、足二本いれて「十柱」ぞ。

手足一本として「八柱」ぞ。

此の事早う皆に知らして、どしどしと安心して働く様にしてやれよ。

飛行機の災難も

地震、罪穢の禍も、

大きい災難ある時には、息乱れるのざぞ。

「一二三祝詞」と「祓え祝詞」と

「神の息吹」と「息」と

一つになりておれば、災難逃れるのぞ。

信ずる者ばかりに知らしてやりて呉れよ。

十二月十八日、

ひつ九か三。

 

224>227

日の出の巻、第十一帖(二二四)

江戸に道場作れよ。

先づ一二三(ひふみ)唱へさせよ。

神示、読みて聞かせよ。

鎮魂(みたましずめ)せよ。

鎮神(かみしずめ)せよ。

十回で一通り会得る様にせよ。

神祀りて、其の前でせよ。

神がさすのであるから、どしどしと運ぶぞ。

誠の(まことの)益人(ますひと)作るのぞ。

此んな事申さんでも、やらねばならぬ事ざぞ。

神は一人でも多く救ひ度さに、夜も昼も総活動してゐる事、会得る(わかる)であろがな。

神かかれる人、早う作るのぞ。

身魂せんだくするぞ。

神かかりと申しても、

狐憑きや、

天狗憑きや

行者の様な神憑り

でないぞ。

『誠の神憑り』であるぞ。

役員、早う取りかかり呉れよ。

十二月十一日、

一二Θ。

 

第十四帖(二二七)

お太陽様(おひさま)、円いのでないぞ。

お月様も円いのではないぞ。

地球も円いのではないぞ。

人も円いのが良いのではないぞ。

息してゐるから円く見えるのざぞ。

活いて(はたらいて)ゐるから、円く見えるのざぞ。

皆、形無いものいふぞ。

息してゐるもの、皆円いのざぞ。

神の「経済」、この事から生み出せよ。

大きくなったり小さくなったり。

神の御心通りに活く(はたらく)ものは円いのざぞ。

円い中にも、心(しん)あるぞ。

神の「政治」、この事から割り出せよ。

神は政事(まつりごと)の姿であるぞ。

神の政治、生きてゐるぞ。

人の政治、死んでゐるぞ。

十二月十五日、

一二Θ。

 

225>226

日の出の巻、第十二帖(二二五)

「日に日に厳しくなりて来る」と申してありた事、始まってゐるのであるぞ。

まだまだ激しくなって、何うしたらよいか分らなくなり、

あちらへうろうろ、こちらへうろうろ、

頼る処も、

着るものも

住む家も、

食ふ物も

無くなる世に、迫って来るのざぞ。

それぞれに、めぐりだけの事は、せなならんのであるぞ。

早い改心は、その日から、持ちきれない程の神徳与へて、喜悦し喜悦し(うれしううれし)にしてやるぞ。

「寂しくなりたら訪ねて御座れ」と申してあろがな。

洗濯次第で、何んな神徳でもやるぞ。

神は御蔭(おかげ)やりたくて、うづうづしてゐるのざぞ。

今の世の様(いまの、よのさま)見ても、未だ会得らんか(まだ、わからんか)。

神と獣とに分けると申してあろが。

早う此の神示(ふで)読み聞かせて、一人でも多く救けて呉れよ。

十二月十二日、

ひつ九のか三。

【明日香>わたしにとっての「御蔭」は、エンちゃん、赤城をはじめとする多くの存在や、ブログを通じた方々とのつながりそのものです】

 

日の出の巻、第十三帖(二二六)

此れまでの仕組や信仰は、方便のものでありたぞ。

今度は正味(せうまつ)の信仰であるぞ。

神に真直(ますぐ)に向ふのざぞ。

日向(ひむか)と申してあろがな。

真上(まうへ)に、真すぐに、神を戴いて呉れよ。

斜に(ななめに)神戴いても、光は戴けるのであるが、

横からでも「お光」は戴けるのであるが、

道は真すぐに、

神は真上に戴くのが、

神国のまことの御道であるぞ。

「方便の世」は済みたと申してあろがな。

「理屈は悪ざ」と申して聞かしてあろが。

今度は何うしても失敗こと(しくじること)出来んのざぞ。

神の経綸(しぐみ)には狂ひ無いなれど、臣民、愈々苦しまなならんのざぞ。

泥海に、臣民、のたうち廻らなならんのざぞ。

神も、泥海にのたうつのざぞ。

甲斐ある御苦労なら、幾らでも、苦労甲斐ある(くろう、かいある《明日香>苦労のしがいはある》)なれど、

「泥海、のたうち」は、臣民には堪られん(こばられん)から、

早う掃除して、神の申す事、真すぐに肚に入れて呉れよ。

斜や横から戴くと、「光だけ影がさす」のざぞ。

「影させば闇となる」のざぞ。

「大きいものには大きい影がさす」と臣民申して、止むを得ぬ事の様に思ふてゐるが、それはまことの神の道、知らぬからぞ。

影さしてはならんのざぞ。

影はあるが、それは「影でない様な影」であるぞ。

「悪でない悪、なる」と知らせてあろが。

真上に、真すぐに神に向へば、影はあれど、 影無いのざぞ。

闇ではないのざぞ。

此の道理、会得るであろがな。

神の真道(まみち)は、影無いのざぞ。

幾ら大きな樹でも、真上に真すぐに光戴けば、影無いのざぞ。

失敗(しくじり)無いのざぞ。

それで洗濯せよ、掃除せよと申してゐるのぞ。

神の真道(まみち)会得りたか(わかりたか)。

天にあるもの、地にも必ずあるのざぞ。

「天地合せ鏡」と聞かしてあろがな。【あさり>前にも述べた通り、鏡とは『水鏡』(╹◡╹)】

天に太陽様ある様に、地にも太陽様(おひさま)あるのざぞ。

天にお月様ある様に、地にもお月様あるのざぞ。

天にお星様ある様に、地にもお星様あるのざぞ。

天からい吹ぶけば(いぶけば)、地からもい吹くのざぞ。

天に悪神あれば、地にも悪神あるのざぞ。

「足元気つけ」と申してあろがな。

今の臣民、上許り(うえばかり)見て、

頭ばかりに登ってゐるから、分らなくなるのざぞ。

「地に足つけよ」と申してあろが。

地、拝め(おろがめ)と、

「地にまつろへ」と申してあろが。

地の神様、忘れてゐるぞ。

下と申しても、位の低い神様のことでないぞ。

地の神様ぞ。

地にも

天照皇太神様、

天照大神様、

月読大神様、

須佐鳴之大神様

あるのざぞ。

知らしてあること、神示克く(ふで、よく)読んで下されよ。

国土の事、「国土のまことの神」を、無いものにしてゐるから、世が治まらんのざぞ。

「神々祀れ」と申してあろがな。

「改心第一」と申してあろがな。

「七人に伝へ」と申してあろがな。

吾れ善し(われよし)は「ちょん」ぞ。

十二月十四日、

ひつくのかみ。

【あさり>最後の「ちょん」。これも何度も言う通り、差別的意味合いはありません。

もちろん、この言葉に『特別な呪詛を込めて、特定の民族に対して、使っている』人たちやグループがいるのは知っています(u_u)。

しかし、日本語をこのように使う事は、他ならぬ日本人自体への呪詛が込められていることをよく心に留めておいてください。

ここで言う「ちょん」とは、「弾き飛ばされますよ!、選ばれませんよ!」という意味です。(╹◡╹)】

 

レイアウト&審神者 ブースカ明日香

アドバイザー ひるこのあさり、他多くの神様たち

2018年10月3日(水)23:02